2.フランス語が話せたらもっと楽しかったのに!【ひろ’s Colorful Life2】 2018.06.20 伊藤裕子について 女の自由な生き方って何だろう? 結婚当初から父の実家と同居していた母。 実は子どもの名前を自由に決められなかったといいます。 私がお腹の中にいた時に呼びかけてくれていた名前「冬芽(ふゆめ)ちゃん」。 けれど、同居していた伯母が「当然『子』がつく名前をつけるわよね?」と。 いつの時代も女性は柔軟に対応することを求められます。 時には、自分の気持ちを後回しにすることもあります。 同居や、だんな様の実家とのおつきあいもそう。 今の時代、だいぶ変わってきたとはいえ、女性として、ひとりの人間として、自分らしく生きることを模索する女性たちはやっぱり今も溢れていると思うのです。 フランス語が話せたらもっと楽しかったのに!! 4歳のとき、父が仕事の関係で3ヶ月のベルギー出張となりました。 フランス語どころか英語にも自信のなかった母。 けれど彼女は4歳の私と2歳の妹を連れ、父に会いに行きました。 「あの頃は必死だったのよ」 1ヶ月近く滞在したブリュッセルのフラットから見えた景色は、今も私の脳裏に焼きついています。 サンカントネルや、毎日のお買物。 2歳の妹はお買物のたびに寝てしまうから、私はいつも荷物持ちでした。 ある日、現地のご家庭に招かれた私たち。 子ども同士、新聞紙で兜を折ったり鬼ごっこをしたり。 楽しかった。 けれど相手が話していたのはフランス語です。 実は私、自分のフランス語は完璧だと思っていました。 「ボンジュール、マドモアゼ〜ル」「シルブプレ」「メルシーボークゥ」「ジュヴザンプリ」が言えたから。 だから「母はどうして英語を勉強してるんだろう?フランス語の方が簡単なのに!」と本気で思っていました。 子どもは常に、100%以上で生きています。 自分に足りないところを考えて生きたりしません。 今いる自分が完璧なのです。 現地の子たちと遊んだその日、帰宅した私は母に訴えたのだといいます。 「フランス語が話せたら、もっと楽しかったのに!!」 これが、私が『言葉』というものに興味をもった日のこと。 人と人との間に境界線がないことを感じた日のことです。 ひとりだけランドセルの色が違った! 入学した小学校区には幼稚園がふたつあり、ほとんどの子はそのどちらかの卒園生。 兄も姉もおらず、わんぱく幼稚園に通っていた私は、ひとりぼっちでした。 しかも私だけランドセルの色が紺色。 母は「6年生になって赤いランドセルは…」と思ったのだそうです。 当時は「女の子は赤、男の子が黒」が常識のような時代。 私は変に目立っていました。1年生の間でも、学校全体でも。 でもどうやら私は、大人になるまで母にそのことを言わなかったらしく。 「知らない上級生にいじめられたよね〜」という思い出話が、母にとっては衝撃の事実発覚だったとか。 『人と違う』というのは個性です。 今は心からそう思えます。 母はそれをとても大切にしてくれていました。 けれど「みんな一緒」を美徳とする、日本文化や日本の教育の中で育つには、ちょっとだけ、ちょっとだけ、シンドいことがあるのです。 嘘つきか天才か!? 小学校での私は、いわゆる「勉強も運動もできる子」でした。 算数や漢字テストは100点をとるのが当たり前。 授業で習ったことはたいてい一度聞けば覚えちゃう。 3年生のとき、担任の先生が言いました。 「昨日の算数、わかった人?」 はーい! 手をあげると… 「そんなわけありません。昨日のでわかったという人は、うそつきか天才かのどちらかです」 がーん… ショックでした。 私は確かに理解していたから。 けれど、謙遜、へりくだりの文化真っ只中で育っています。 「自分は天才だと思っていい」という教育は受けていません。 え… わたしって嘘つきなの? 理解できてたらいけないの? それはおかしいことなの?? 他人より先に理解できてしまったり、他人より先に気づいてしまったり、他人より先に本質が見えてしまったり… 小さい頃からそんなだった私は、まわりに理解されずおかしな人扱いされることがだんだん重荷になり、中学・高校を経て無意識にその能力を封印するようになっていきました。 その後、結婚して北海道に渡り、カラーで起業し、コーチングを学んで本当の自分を取り戻す中で、その封印は再び解けていったのでした。 伊藤裕子について